History

末廣の歴史

1.創業

江戸末期である嘉永3年(1850年)、会津藩の御用酒蔵である新城家の二男包裕(かねひろ)は本家から独立し、初代猪之吉として酒造りを始めた。ペリーが浦賀に現れる3年前のことである。
安政5年(1858年)初代猪之吉の他界に伴い、初代の長女に婿入りした遠藤包胤(かねたね)が二代目となったが、時は幕末。戊辰戦争により嘉永蔵は消失してしまう。明治2年(1869年)何とか酒造りは再開できたものの、近代化以降酒の販売が厳しく統制されていたため、同時期に水油と漆器の製造も始めた。こうして事業拡大の礎を築いた二代目猪之吉だったが明治6年(1873年)他界し、長男の正脩が三代目を襲名する。

2.事業拡大
~三代目猪之吉の時代~

三代目猪之吉は清酒、水油、漆器に加え、木盃、桝などの計量器の製造と、事業を拡大していった。同時に販路拡大のため、明治19年(1886年)本宮支店、明治21年(1888年)三春出張所、明治22年(1889年)神田に東京支店、明治24年(1891年)東京支店を日本橋に移転、明治27年(1894年)郡山支店と、福島県内のみならず東京にも支店を開設した。更には明治35年には新城家憲を制定し、合名会社としての歩みを始める。また、本店の改築にも着手しこの時期に複数の蔵が建てられ、明治25年(1892年)に新蔵(現在の喫茶杏)が落成したが、明治39年(1906年)に大火に遭い蔵の大半が焼けてしまったため、現存する建物ではこれが最も古いものとなる。酒造りにおいては、酒質の改善を求め、明治18年(1885年)に銘醸地であった山形県大山から杜氏大瀧清助を、明治36年(1903年)には丹波杜氏の岸本清蔵を招き、酒質の向上を図った。それまで酒造りは家族中心で行っていたものを、杜氏という酒造りの専門家にお願いするということは、当時の会津では先進的なことであった。

・左端が三代目猪之吉

3.酒質日進月歩
~四代目重吉の時代~

明治40年(1907年)三代目が他界し、弟重吉が四代目を襲名した。四代目はきき酒能力が優れており、全国清酒品評会(現在の全国新酒鑑評会)の審査員を第2回より長らく務めるほどであった。明治41年(1908年)には、鑑評会で出会った醸造試験所技官の鹿又親(かのまたちかし)の勧めにより、エンゲルベルク精米機をいち早く導入し自社精米を行った。砕け米が少ないという新しい機械でもって、良質の白米を得ることに成功した。
その中でもとりわけ四代目重吉時代の特筆すべき点は、会津全体の酒質の向上のため酒造組合で招聘した人々を自分の蔵に次々と受け入れ、研修や試験醸造を積極的に行っていたことであろう。記録に残っているものでも、東京工業学校(現在の東京工業大学)高野淳治、醸造試験所の木下研三、江田鎌治郎、そして嘉儀金一郎といった方々が当蔵に来ている。中でも江田鎌治郎と嘉儀金一郎はそれぞれ「速醸」酒母、「山廃」酒母を開発した、現代醸造の土台を作った人々である。
江田は当蔵で酸馴養連醸法(速醸で乳酸を添加するように、最初に造られた酒母の一部を次に造られる酒母に添加していくことで酒母を造っていく手法。)の試験醸造を行い、その後会津で行われた講演ではその時の経験も踏まえた会津の日本酒に対する改善点を指摘している。
一方で嘉儀は、大正6年(1917年)1月に、やはり会津清酒の欠点であった色沢の向上、風味の欠乏等の問題を解決するという目的で、当蔵で山廃酒母、速醸酒母、生酛酒母の比較試験並びに、会津の他の蔵からも水を持参させ水の比較分析を行い良質な水の検出を行った。またその時には醸造米についても、当時酒造りに一般的に使用されていたお米と会津高野村で栽培・改良された「旭亀の尾」でそれぞれ醸造試験が行われ、比較検討された。(その際旭亀の尾は高い評価を受け、それを機に福島県内にその名前が広がることとなる。)翌年は当時支持を集め始めていた濃醇酒の製造について、同旭亀の尾を使用しての試験醸造を行い、翌々年は備前米(酒米雄町の産地で知られる現在の岡山県のお米)を用いての濃醇酒の試験醸造を行うなど、嘉儀はその後大正9年(1920年)まで3年間に渡って当蔵に来て指導を行った。
嘉儀氏の会津での接待役を担った後の五代目猪之吉である貞は、嘉儀氏の影響は醸造試験による直接的なものだけでなく、酒質改良に対する姿勢それ自体でもっての啓蒙的役割を果たした点も大きかったと振り返っている。

・四代目猪之吉(写真左上
・エンゲルバーク精米機(写真中央右上
・前列右より2人目が嘉儀金一郎氏、後列右より2人目が後の五代目猪之吉(嘉永蔵正門にて)(写真

番外.新城と野口英世

幼き日の野口英世の才能を見出すともに、手厚い支援を続け、英世と親子のような関係であった小林栄(後に猪苗代高等小学校校長)の姉は三代目猪之吉に嫁いでいる。また、小林自身には子供がいなかったため、三代目の娘ハマが養女として迎えられていた。その後、野口英世と小林栄は実際に親子の契りを交わしている。更には英世の実弟野口清三も当蔵で働いていたということもあり、当時英世の家とは親戚として交流していた。大正4年(1915年)9月に、16年ぶりに英世がアメリカから帰国した際には嘉永蔵に立ち寄っており、その時の写真も残されている。

・前列左より4人目が野口英世氏(嘉永蔵大広間にて)

4.酒造業への専心
~五代目猪之吉から現代へ~

昭和5年(1930年)多くの功績を残した四代目が他界し、三代目の三男である貞が五代目猪之吉を襲名した。戦争を経て、家業は酒造業に一本化し、昭和28年(1953年)末廣酒造株式会社に移行する。その後五代目が昭和39年(1964年)に他界し、その二男富二郎が六代目となった。
六代目は、昭和48年(1973年)栃木県氏家町に栃木営業所を開設、昭和58年(1983年)には宇都宮に移転。この営業所を起点として栃木県での大きな市場を開拓した。昭和57年(1982年)には自社オリジナル酵母となる「T-1」を発見・分離。当初は酸の生産に特徴のある個性的な酵母であったが、近年では吟醸香も持つ酵母として見直しが進められている。昭和60年(1985年)全国新酒鑑評会で初めての金賞を受賞し、その後平成元年(1989年)まで5年間連続で受賞する。
平成5年(1993年)六代目の長男基行が代表取締役社長就任。平成8年(1996年)博士山の伏流水の流れる、会津高田町(現在の会津美里町)に博士蔵落成。主機能を博士蔵に移転。同年、アメリカ、ヨーロッパへ輸出を開始。平成9年(1997年)生酒の限外濾過に関する特許を取得。平成17年(2005年)には六代目が他界し、翌18年(2006年)基行が七代目猪之吉を襲名。平成14年、現杜氏津佐幸明就任。平成27年、東北清酒鑑評会にて最優秀賞受賞。平成30年(2018年)には嘉永蔵が国の登録有形文化財に指定される。

・嘉永蔵

・博士蔵

コラム:記録(アーカイブ)への意識

以上の歴史を作成するに当たって参考にしたのが、五代目著である『会津酒史要』、『酒業思い出す儘』、『続 酒業思い出す儘』、六代目による『猪之吉と酒業』、『嘉永蔵百五十年史』、会津若松酒造組合(六代目理事長時代)による『会津酒造史』である。今でこそあらゆるものにおいてアーカイブの重要性が認識され始めているが、当時はなにかと口頭伝承になりがちな職人業界にあって、このように文章に残していたことは非常に貴重だ。歴史について当事者自身が記すとなると情報の正誤は慎重に判断すべき点も多く、実際に上記文献を読み進めるに当たって疑問を持つ内容もあったが、それでも「記す」ことを行った先代達には敬意を表したい。